うつ病を克服した有名人  音無美紀子さんの場合

女優 音無 美紀子(おとなし みきこ)

1949年東京都生まれ。1971年に『お登勢(TBSテレビ)』で女優デビューし、その後も1982年映画『男はつらいよ 寅次郎紙風船』、CX系『はるちゃん(1~4)』など数々のテレビや映画、舞台等で活躍。夫は俳優の村井国男さん。二人の子を持つ母でもあり、母親と女優を両立する姿勢に、同世代の女性の支持を集めている。
音無 美紀子さん写真

 

“まずは自分で一歩を踏み出すこと”その一歩が踏み出せれば、うつ病はきっと克服できると思います。
音無 美紀子さん写真良妻賢母で優しいお母さんのイメージそのままに、穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと音無さんは、取材場となったホテルのソファーに腰をかけた。
テーブルに置かれたコーヒーカップに伸ばした音無さんの手からは、家族にたっぷりと愛情を注いできた母の温もりが溢れていた。
そんな音無さんがうつ病を体験したというのは、音無さんのお話が始まるまでは信じられないような感じがしていた。
「偉そうなことは何も言えないけど、私の体験が現在うつ病で悩んでいる方々のお役に立てればいいと思います」そう言って、苦しかった過去を懐かしむように音無さんはうつ病の体験談を話し始めてくれた。

 

乳がんの手術を終え退院して帰ってきてからの生活。がんばろうと思っても何もできない自分に苛立ち、少しずつうつ状態に・・・
乳がんだと分かって手術を受けたのは、18年前のこと。
今は乳がんだったことを隠すことはなくなりましたが、当時は自分の弱みを見せることが嫌で、乳がんということは隠していました。仕事がこなくなるんじゃないか、世間でいろいろ噂を立てられるんじゃないか・・・、様々なことが気になって。
女性として乳房を失うということに、耐えられない苦しみや不安があったのに、それでも他人に弱みを見せられない自分がいて、入院中も、とにかく明るくしていました。
音無 美紀子さん写真だけど、入院しているうちに、社会から取り残された疎外感みたいなものを強く感じるようになってしまって・・・。お見舞いに来てくれた姉や妹から感じる外の臭いに、焦りを感じたんですね。病院から出て行く彼女たちを病室の窓から見ていて、「あー、社会に戻って行くんだ。私も早く戻らないと・・・」って、そんな焦りがだんだん強くなっていきました。だから、「手術して悪いところを取って、入院前の元気な自分ともう何も変わりはない」、そう自分にいい聞かせて、一日も早く退院するために、リハビリもほかの人の何倍もがんばったんです。
乳がんという壁を全速力で突っ走り、もとの生活に戻って来たのは良かったのですが、そこには自分が想像していたのとはまったく違う現実が待っていました。
左胸を手術したので子供を抱けないし、子供をお風呂に入れられない、その上、ちょっとした重みのあるものでも傷口が痛むから左手を自由に扱えなくて、自分の髪にドライヤーを当てるといった簡単なことも思うようにできない状態。
早く子供たちに手料理を食べさせてあげたいのに、左手を傷つけてはいけないため、包丁を持って料理をすることもできず、あんなにはりきって退院したのに、現実の生活では何ひとつもとの自分には戻れていなかったのです。
「乳がんという大病をしたのだから、ゆっくりもとの生活を取り戻して行けばいい」と思えていたら、結果は違っていたのかもしれません。でも、当時の私にはそんな風に考える余裕はなくて、何もできない自分に自信を失っていくばかりでした。このころから、少しずつこころのバランスが崩れ始めていったのです。
大切な撮影の前日、とうとう声も出せなくなり、“元気なふり”を演じていた自分が一気に崩れ落ちて行きました。
以前のように明るく振舞うことができなくなって、自分が今までとは違ってきていることに気づいてはいたのですが、それでも依頼された仕事を断ることができずに女優の仕事は続けていました。
音無 美紀子さん写真あるドラマの撮影のために衣装合わせに行ったとき、用意されていた衣装に私は凍りつきました。
胸元が大きく開いた、ノースリーブのシャツ。
左胸に手術の跡があり、腕には抗がん剤を何度も投与した注射痕が青いアザになって残っている今の私には、とても着ることのできない衣装。
自分の状況を正直に話して、衣装を変更してもらえばよかったのですが、乳がんの手術を受けたことを隠し続けていたために、「腕が太いからこのシャツは嫌だ」とか「こんなに胸元は出したくない」とか自分でも恥かしくなるような言い訳をつけ、監督に衣装の変更を交渉していました。
嘘をつく度にこころが締めつけられ、だんだん自分がなくなっていくような感じがしていました。もう、こころも体も限界のところまできていることは分かっていたのですが、なんとか撮影まで自分を奮起させながら踏ん張って。
ところが、撮影を明日に控えた最後の読み合わせで、まったく声が出なくなってしまったのです。
監督に何度指摘されても、どんなに自分で振り絞ってもまともな声が出せず、女優が人前で声が出せないという屈辱的な状況に、私のプライドはズタズタ。
「カメラの前で、声が出なかったらどうしよう・・・」、その不安を跳ね除けるパワーはもう残ってなく、翌日から始まる撮影を土壇場でキャンセルしてしまったのです。
この日を境に、私は本格的なうつ状態に入っていきました。
スーパーを1時間回っても、何ひとつ買えない、お弁当のメニューが決められず、1週間以上も悩み続ける、そんな日々が続きました。
うつ状態が続いてから、つらい症状はいくつかありましたが、その中でも眠れないのはとても苦しかったです。
夜、ベットに入っても全然、寝つけない。今までならベットに入り5分もすれば眠っていたのに、一晩中起きているような感じでした。
当時、隣の家の娘さんが昼間にピアノの練習をしていて、夜ベットに入ると、昼間に聞いたピアノの旋律が、まるで耳元でガンガンと弾かれているのかのように何度も何度も繰り返すのです。
眠れずに苦しむ私の手を、主人はずっと握っていてくれたのですが、そんな主人の優しさにこたえることができず、私は自分が情けなくて仕方がない気持ちでいっぱいでした。
母親としての仕事もまったくできない状態で、以前は大好きだった料理も何を作っていいか決められなくなってしまったのです。
音無 美紀子さん写真冷蔵庫を開けても、何の食材を取っていいか分からず、ただ数分ボーッと中を見ているだけでした。
当時、小学生だった娘にお弁当を持たせていたのですが、うつ状態がひどくなったころから作れなくなりました。正確には何を作っていいか分からないのです。スーパーに食材を買いに行っても、お野菜のコーナー、お魚、お肉と店内を一周しても何を買うかを決めることができずに、何も買い物かごに入れることができない・・・。子供たちに何も食べさせない訳にはいかないので、お惣菜コーナーでせめて夕飯になりそうなハンバーグとかコロッケをとりあえずかごに入れてレジに向かうのですが、途中で「子供たちにこんな出来合いのものを食べさせてちゃいけない・・・」と思って、もとの場所に戻しに行く。それで、とにかくなんでもいいから食材を買おうとまた野菜コーナーに向かうんですが、そしたら今度は、周りの人の目が気になりだして。自分のことを変な人だと思って白い目で見られているような感じがして、スーパーから逃げるように帰る。
情けない話ですが、本当にこんなことを毎日のように繰り返していたんです。
今でも忘れられないのは、春の運動会のお弁当事件。
春の運動会に手作りのお弁当を持って夫婦で子供の応援に行くのが毎年恒例の行事で、お昼休みに運動場の観覧席で大きなシートを広げて、子供のお友だちの家族とも一緒になってピクニック気分でそれを一緒に食べるのはとても楽しい時間でした。
そこには、いつも家族みんなの好きなものが並んでいて、子供たちもお弁当の蓋を開けると大喜びでした。
でも、その年は本当にうつ状態が悪化していて、お弁当をまともに作るができない状態でした。「今年は無理だからごめんね」って言えればよかったのですが、運動会のお弁当だけは絶対に自分が作らなければいけないという強迫観念に近い感じでした。
「作らなきゃ」という気持ちに反比例して、何を作ればいいのか分からない、だから1週間以上も前からずっとお弁当のことが気になって、主人が仕事から帰ってくると「お弁当、何作ろう、お弁当、どうしよう・・・」って責め立てるにようにしていました。主人はお弁当の重荷から私を解放しようという優しさだったのだと思います。前日の夕方、自宅近所の手巻き寿司のお店から、シーチキンや梅、五目など何種類かの太巻きを買ってきてくれました。「明日は、これを持って行こう。家族で一緒に食べればなんだっておいしいよ」私を諭すように、やさしくそう言って、私の代わりにお弁当を決めてくれたんです。だけど、ビニール袋に入ったのり巻きやお稲荷をみて、自分は本当に何もできなくなってしまったんだ、こんな出来合いのものを持って行かなければならない状態にまでなってしまったのだと思ったら、本当に悲しくて、情けなくて、床に崩れ落ち、大声を上げて泣き続けました。

 

 

うつ病のどん底から私を救ってくれたのは、家族の優しさでした。
音無 美紀子さん写真「もう、死のう」そんな風に考えたことは何度もありました。大好きで、愛おしくてたまらないはずの子供でさえも、うつ病のときはうとましく感じることもあって・・・。だけど、そう思うたびに、自分はなんて最低な母親なんだろう、母親失格だと強く自分を責め、また落ち込んでいました。少し気分が良いときは、がんばって公園に子供を連れて行くのですが、本当に楽しそうに子供と遊んでいるほかのお母さんが妬ましくてたまりませんでした。なんで、あんなにこころから笑えるんだろうって。だからひとり、砂場で遊んでいる我が子を見ると、一緒に遊んであげることも、お弁当を作ってあげることもできないこんな母親でごめんなさいという申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
「私なんか、いなくなればいい」こころの底からそう思うこともよくありました。
主人は私がそこまで追いつめられていることを、分かってくれていたのでしょう。
ある晩、布団に入った私の手をそっと握り、「子供たち、よく寝てるな~。なぁ、この子たちの5年後を一緒に見たいと思わないか。こんなヨチヨチ歩きの子が、ランドセルしょって学校に通う姿を見届けたくないか。僕は君と一緒にこの子たちの成長を見たい。何もしなくていいから、ただ僕のそばにいて、一緒に見守ってほしい」と話してくれたんです。
真っ暗な部屋のなか、私は声を殺して泣きました。凍りついていた私の心をとかすように、温かな涙が次から次から溢れ出てきて。
私はこの主人の言葉をきっかけに、家族のため、自分のために「生きよう」と思うようになりました。
少しずつ、前に踏み出そうとしている私の気持ちを後押ししてくれるように、子供たちも優しく支えてくれました。
これまで私の胸の傷に決して触れることのなかった娘が、お風呂に入ったときに、「ママ、大丈夫だよ。おっぱいは、また生えてくるから」っておまじないをするように、傷口をそっと撫でてくれたのです。
私は「あー、自分みたいなダメな母親でも、なんとか元気になってほしいって思ってくれているんだな」と思い、うれしくて涙が止まりませんでした。
家族の思いやりが、すべてのことに後ろ向きだった私のこころに勇気をくれました。
うつ病からの回復。大切なことは、まず、一歩を踏み出すこと。
音無 美紀子さん写真うつになってから、今まで得意だった料理ができなくなって、どんどん自信を失って。そして、そんな自分が嫌になり、責め、落ち込むという負の悪循環に陥っていた気がします。
自分で自分をどんどん悪いほうへ押し進めていたというか・・・。
でも、それも気持ちの持ちようとかじゃなくて、うつ病という病気が基盤にあったから仕方がなかったのかもしれません。
病気が少しよくなってくると、不思議とネガティブな自分の考えに歯止めをかけられるようになりました。
「ダメだ、できない」と否定的なことばかり言ってないで、小さいことでもできることはやってみようって思えるようになってきたんです。
約1年ぶりにこころの底から笑ったのは、ほんとうに些細なことでした。
『娘の夏休みの絵日記』
私がうつ状態でほとんど出かけていない我が家には、娘が絵日記にかけるような出来事が何もなくて・・・。大きなスケッチブックをリビングの床に広げて、悲しそうに真っ白なページを見つめている娘を見て、なんとかしなくっちゃって思ったんです。
どのくらい娘の期待に応えられるか自信はありませんでしたが、「お母さんとどこかに出かけてみようか?絵日記に書けるような思い出ほしいもんね」って誘ってみました。
そうしたら、娘は「ママ、一緒にお料理したい」って。
料理という言葉に一瞬戸惑ったのですが、無理をせずに今の自分の身丈に合ったことでいいと思い、目玉焼きを一緒に作ることにしたのです。
フライパンに油を引いて、卵を割るだけのどうってことのない作業でしたが、フライパンの真ん中にきれいに落ちたまんまるの卵を見ると、本当にうれしくて、うれしくて、「うわぁ~、できたね!」って子供よりも大はしゃぎしていました。
こんな小さなことをきっかけに、次はごはんを炊こう、明日はお庭でプールをやろう、週末は水鉄砲あそび、そうやって日を追うごとに少しずついろいろなことが楽しめるようになっていきました。
目玉焼きのような小さなチャレンジでしたが、病気を治すためにはまず、一歩を自分で踏み出すことが大切だと強く感じました。
もちろん、周囲の人の支えは欠かせないものですが、「治したい」と思ってそのために一つでも、二つでも行動を起こすことは、自分自身にしかできないのだと思います。
当時の私は「がんばり屋の負けず嫌い」、うつ病になりやすい性格にぴったり当てはまっていました。
音無 美紀子さん写真うつ病になりやすいタイプっていうのを以前、何かの本で見たことがあるのですが、当時(18年前)の私はぴったり当てはまっていました。がんばり屋、負けず嫌い、見栄っ張り、まさにその通り。ちょっとこれは無理かな~と思っても断れないことがよくあって、自分の限界を超えた仕事を詰め込んでいました。
忙しくていっぱい、いっぱいでも引き受けた以上は完璧にやりたいと思うから、また、そこで無理をして。若いころの自分はそんなことの連続でしたね。
それは、仕事だけでなく、主人や子供たちに対してもそうでした。やはり、女優の仕事と家事を全部やりこなすのは難しいから、時にはお手伝いさんをお願いすることがあるんですが、他人に素直に任せることができなくて、「あ、それは違う。これはこうじゃなきゃダメ」とか細かく口出しして、結局自分でやってしまうということもよくありました。
自分にはできないってことを言うことがとにかく悔しくて、なんでもかんでも「できる」って言い張っていたんです。
本当に今考えると、自分でもおかしいくらいの負けず嫌いですね。
でも、人には時間も能力も限られていて、どんなに無理をしてもできないこともあって・・・。
だから、いろいろ抱え込んでいるうちに、自分ではどうしようもできなくなってパニックになることもよくありました。

うつ病が教えてくれたこと。それは、本当の強さでした。
音無 美紀子さん写真うつ病を経験して、本当の強さとはどういうことかが分かったような気がします。
以前は、弱い自分を見せたくなくて、なんでもかんでも「できる、できる」って許容量を超えてがんばってしまっていたのですが、そうやって無理を重ねていると、最後にはバランスを崩して、自分にとって一番大切な家族すらも守れない状態になってしまうんですよね。
だから、本当に大切なものを守るために、今できることと、できないことを整理して、「できない」ということも、実は大切なことなんだなって気づきました。
今は、肩の力を抜いて、毎日を楽しめています。
あの時、小さかった子供たちも、今ではりっぱに成人しました。
やっぱり、「生きていてよかったな~」ってこころからそう思います。
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